マスターはそのまま車を走らせる。
そのとき、トランクの中で揺られながらHはもがいた。これは後にマスターのトランク内に引っかき傷やへこみ傷があることでも、相当激しかったと思われる。
この前後でHは縛られた手でたまたまズボンの尻ポケットに入れていた携帯電話を取り出し、メールを打ったにちがいない。
「311444441115522222999993」
Hは後ろ手に縛られていた。
その自由にならない手を動かしたとき、たまたま尻ポケットの携帯電話に触れた。
おそらく、助けを呼ぼうと思いついただろう。しかし電話は会話をするには頭から離れている。
となるとメールしか取るべき選択はない。
携帯電話を取り出し、開く。
当然手元は見えないわけだから操作は記憶だけが頼りとなる。
アドレスを打つような余裕もない。おそらく最後に受信したメールに対して返信をする。
その最後に受信したメールが私からのメールであったことに気が付いていたかは定かではない。
そうしてメール作成画面を開く。
そのまま漢字変換などをしないままひらがなのみで打ち続けたはずだった。
記憶を頼りに操作していたHはうっかり文字入力を、ひらがなから数字入力に切り替えてしまっていたのだ。
携帯電話ではそれぞれの数字を複数回押すことによって、ひらがなを入力していく。
つまり、ひらがなに変換されなければただの数字が並ぶことになる。
あの数列は入力べきひらがなの順番だったのだ。
警官からの電話のとき、私は自分の携帯電話を開いてHのメールを説明しようとした。
このとき、携帯電話のボタンに記された文字を見て、はっと気が付いた。
即座に数字をメモに書きとめ、携帯電話の入力をひらがな入力にして数字の通りにボタンを押す。
すると表示されたのは次の一文だった。
「さいとうにころさ」
おそらく『斉藤に殺される』と打ちたかったのだろう。
なんということだ。あのメールは助けを求めるメールだったのだ。
あのメールを受信したとき、Hはまだ生きていたのだ。
泥酔し混濁した意識の中で、死にたくないという一心でメールを打ったのだ。
私の脳裏には、縛られ、酔った手元で必死でメールを入力するHの姿がありありと浮かぶ。
酔ってなお車に揺られ、嘔吐しながら、間違ったと思えば、最初からからまた入力しなおしたであろう。
やがて、入力の途中で意識が朦朧としてきた為か、それとも車が止まったためかの理由で、入力しかけのままで送信したのではあるまいか。
トランクを開けた斉藤は気絶したHを抱え上げ、縄を解く。
その眼下には、台風によって水かさを増した川が、周囲の全てを飲み込まんと狂ったように牙を剥いてる。
あっという間に飲み込まれ、押し流されたHを後に斉藤は再び車に乗って立ち去った。
悲鳴も何も聞こえなかったという。
これが、事件の顛末であった。
あのメールを受け取ってから、ちょうど1年になる。
私はあれから、メールが着信するたびにあの数列を、トランクの中のHを思い出す。
もちろん、あのような数列はもう二度と来ない。
しかし、思い出す度に私は、心臓を鷲掴みにされたような感覚に襲われる。
あの時、即座に気が付いたなら。
あの時、警察に連絡していれば。
あの時、電話をしていたなら。
いや、現実的にはどうも出来たはずはない。
斉藤という苗字の知り合いは何人もいる。
メールを受け取った数分後にはHは川の中だ。
増水した川では、そこに居ると判っていても捜索などできたはずもない。
あの事件の直後から、私は幾度となく罪悪感に駆られ、その度に自分に非はないと自身に言い聞かせてきた。
そして、時間とともにその感覚にも慣れてきた。
それでも、時折空を見上げては思う。
Hは私を許してくれるのだろうか。
と。