「じっと何をみてるんだ?」
とNが言う。
「空」
と僕が答える。
「なんだ、空なんていつでも見れるじゃないか」
そう言ってNは首をかしげた。
いや、空の色だっていつも違うし、雲の大きさも形もちがうじゃないか。
と思っても、口には出さない。
そんなことは、言わなくたってNもわかってるんだから。
わかってるのに言うのは、つまりNにとってはその程度は変わらないのと同じだからだ。
すこし空の色が違おうが、雲の形が変わろうがNにとっては変わりがないのだ。
同じものを見て、Nは変わらないという。
同じものを見て、僕は変わっていると思う。
そういうことをみんなは『価値観が違う』というのだと思う。
それが原因となってお互いに壁を作ったり、溝を掘ったりしてしまうらしい。
時には、修復できないほど、離れてしまうとも聞く。
しかし、だからといって、僕はNが嫌いだとかそういうことはないと思う。
首をかしげて不思議そうな顔をしているNを見ると、こちらもおもわず頬が緩んでしまうのだから。
話を戻そう。
僕は別に珍しくて空を見ていたわけではない。
もちろん、僕の目には青い空が、白い雲が映っていた。
でも、心はその空からすこし離れたところにいた。
青い空は、微妙に色が異なる。
昨日の青と、今日の青はきっと違う。
真上の青と、遠くの青はきっと違う。
雲も、今まで見たことがある形とは決して同じにはならない。
いや、同じになれないんだ。
とどまりたくても、とどまれない。
例え、空や雲に意思があったとしても、彼らは自分が変わって行くのを止めることは出来ない。
もしかしたら、ある日の青い色を気に入ったとしても。
もしかしたら、ある日の形を気に入ったとしても。
自分の意思ではない何かのために、変わり続けなければならないのだ。
と、そこまで考えると、僕の心はまたすこし離れたところへ移動した。
では、とどまれる存在はあるのだろうか。
僕は生まれてから今までの見聞きしたモノや事柄を思い出す。
もちろんそのなかには、人であるNも含まれる。
なかった。すくなくとも僕が知る世界には。
大地であれ、海であれ、コップに入れた水であれ、その形をとどめることは出来ない。
どんなに硬い岩であれ、どんなに厳重に保管された絵画であれ、その姿をとどめることは出来ない。
人や草木も。
人。
つまり自分やN。
僕らも留まることはできない。
でも、不思議なことにぼくらは変わっている実感がない。
常に変わり続けているのに、その変化に気が付かない。
それでいてふと昔を回想すると、今の自分と異なっていることに驚く。
異なっているのは、例えば姿形であり、考え方でもあり、知識の量でもある。
さらに、僕の心はすこし離れたところへ移動する。
あらゆるものが、変わり続けるというルール。
そのルールの番人、執行者、それは誰か。
時間。
時間だけはありとあらゆるもの全てに変化をあたえる。
あらゆる意味でもっとも平等であり、あらゆる意味でもっとも無慈悲な存在。
彼のおかげで、僕らは自らが望む望まないにかかわらず、それが良いかどうかもわからないまま、変わりつづけていく。
5分前の、いや10秒前の自分だって、もはや今の自分とは違う。ほんのちょっとでもやはり違うんだ。
突然『儚い』という言葉が浮かんだ。
その言葉の意味がすこし分ったような気がした。
僕らの世界は、なんと儚いのだろうと。
「じっと何をみてるんだ?」
とNが言った。
「空」
と僕は答えた。
「なんだ、空なんていつでも見れるじゃないか」
そう言ってNは首をかしげた。
僕はすこし笑って、立ち上がった。
今日の空は、やけに青くて眩しい。